美術の知識と美術鑑賞 vol.4
こんにちは。「美術検定」実行委員会事務局です。
奥村高明氏による「美術の知識と美術鑑賞」を巡る連載も1つ目の佳境を迎えます!
検定合格に向け受験勉強中のみなさんにも、アートナビゲーターとしてご活躍の方々にも、「自分が勉強している美術の知識ってなんだろう?」と振り返るよい機会に、あるいは「もうちょっと頑張ってみよう」と励ましになる考察です。
ぜひぜひ、読んでみてくださいね!
奥村高明氏による「美術の知識と美術鑑賞」を巡る連載も1つ目の佳境を迎えます!
検定合格に向け受験勉強中のみなさんにも、アートナビゲーターとしてご活躍の方々にも、「自分が勉強している美術の知識ってなんだろう?」と振り返るよい機会に、あるいは「もうちょっと頑張ってみよう」と励ましになる考察です。
ぜひぜひ、読んでみてくださいね!
これまでの連載で述べてきたことについて簡単にまとめてみよう。美術の知識は以下の場面で次のように用いられていた。
①アートライティング(註1)~美術について自分なりの考えをまとめるために、作品から情報を集める、調べるなどを行う。美術の知識は材料として用いられている。
②アートゲーム(註2)~形や色、作品名など様々な知識を活用してゲームを行い鑑賞の能力を高める。美術の知識はゲームの道具として用いられ特段意識されない。
③対話による鑑賞(註3)~複数名のディスカッションによって作品解釈を行う。美術の知識は作品解釈が深まる資源であり、他の知識と平等な存在として働く。
いずれの場合も、美術の知識はカードや友達や場などの「間」に存在し、対象年齢や使われる場面などによって性質を変化させる。「正解」があるというような確固たるものではなく、あえて喩えれば柔らかな生き物のように学習活動の中にある。
このように書くと「美術の知識に正解はないのか」となるのだが、そうではない。美術の知識に「正解」はある。その一つが「美術検定」である。そこでは美術の知識は時代やジャンルなどで細かく分類されていて、1級から4級まで難易度のヒエラルキーが構築されている。今年度、私のゼミの学生がこれに取り組んでいる。4級か3級に合格するために、作品と題名、美術運動について「正解」を覚えている真っ最中だ。
彼女たちの様子を見ていると、アートゲームや対話的な鑑賞を行っているときとは、知識に対する意識がかなり違う。彼女たちは、それを巨大な壁のように感じている。おそらく、彼女たちにとって美術の知識は、物のような厳然たる実体で、自分たちの活動に先立って存在するように見えるのだろう。しかし、彼女たちは、それをどうにか克服しようとしている。その姿を追うことで美術の知識について考えてみようと思う。
まず学生は、作品を分類的に見ることが難しい。花瓶や人など何が描いてあるかは分かるし、その雰囲気や主題の解釈もできるが、作家や○○派とつながらない。そこで、作品を、形や色、タッチなど視覚的に分けて見る。例えば「セザンヌの人物や風景、静物などから形態的な共通性をつかむ」「マチスやルオーの強い色や筆触をとらえる」ということをしている。つまり、頭の中に「セザンヌ」や「野獣派」という視覚的な箱をつくろうとしているのである。
次に、作品を位置的に見ることが難しい。どれを見てもつながりなくバラバラに見えてしまう。そこで、ギリシャ、中世、ルネサンス、アカデミー、印象派などを勉強して、作品を歴史や社会にシンクロさせる。「美術や美術家という概念が成立したのはいつごろか」「西洋画が流入することで日本画が成立した」「絵の具チューブの発明と絵画の動産化」「江戸やパリの都市の成立と風景画」「西洋偏重の単線型としての美術史」なども学習する。つまり、作品を歴史的、社会的な文脈を持つものとしてとらえようとするわけである。
さらに、作品を自分の視点から見ることが難しい。特に初めて出会う作品は生活と遠く無関係に見える。そこで、作品を自分に引き寄せる。イギリスでお土産を選んだ学生は「カンスタブルはチョコレート菓子のパッケージ、典型的なイギリスの田園風景のアイコンになった」という話に頷く。家がお寺さんという学生は、阿弥陀と弥勒の違いを「悟った後は座る、悟る前には足を組んで考える」というポーズの違いで理解する。つまり、作品をできるだけ自分の経験や生活に即して見ることで理解しようとするのである。
もちろん作品には、それが表そうとしている主題や内容、メッセージなどの要素もある。対話による鑑賞などでは重要な問題だ。しかし、彼女たちはそれほど重視していない。なぜなら、限られた準備期間では、一枚一枚の作品理解に時間はかけられない。また過去問を調べると主題や内容に関する問題は案外少ない。するとこの点については、比較的飛ばしていい要素ということになる。
そして、見逃してならないのは、そのような学習、言い換えれば正解探しというテストに参加することによって、学生のそれぞれが、ゼミというコミュニティを構築し、そのメンバーとしてのアイデンティティを達成しているということだ。簡単に言えば、私の美術教育ゼミに参加しなければ、このようなことにはならなかった。美術の知識は、美術教育ゼミの実践と切り離せない。美術の知識は、コミュニティを維持し展開するための材料や道具になっている。
まとめれば、美術検定に参加するという事例において、美術の知識は、①作品を視覚的な特徴で分類しようとする行為、②歴史的、社会的な文脈をもったものとして位置付ける行為、③自分の経験と結びつける行為、によって成立していた。さらに、学問世界の入り口としてのゼミのコミュニティ、メンバーとしてのアイデンティティに関する実践として成立していた。言い換えれば「美術の知識は美術的な行為とともにある」「美術の知識は美術的な実践に埋め込まれている」ということができるだろう(註4)。
*****
註1 筑波大学の直江俊雄先生らが中心になって、隔年で「高校生アートライター大賞」を開催している。
註2 十数年前に愛知教育大の藤江充先生が日本に導入し、現在美術館から学校現場へと広がりを見せている。
註3 アメリア・アレナスやDIC川村記念美術館の実践を起点に、帝京科学大学の上野行一先生が対話をふんだんに用いる日本の学校教育へ接続した。
註4 おそらく、大学とか美術館とかの「学問」世界も同様だろう。例えば、美術の知識は細かく分類され、ヒエラルキーで構築され、正解がある。保有していないとメンバーにはなれない。マルチカルチャリズム、ポストコロニアルなど、固定的な見方を変えたり、思考の道具として役立ったりする。常に変化するので獲得にゴールはなく、入門前も、入門後も日々勉強するetc。。
奥村高明(おくむら・たかあき)
聖徳大学 児童学部 児童学科教授 芸術学博士(筑波大学)
小中学校教諭、宮崎県立美術館学芸員、文部科学省教科調査官を経て今年4月より現職に着任。
近著は『子どもの絵の見方―子どもの世界を鑑賞するまなざし』(東洋館出版社)など。
①アートライティング(註1)~美術について自分なりの考えをまとめるために、作品から情報を集める、調べるなどを行う。美術の知識は材料として用いられている。
②アートゲーム(註2)~形や色、作品名など様々な知識を活用してゲームを行い鑑賞の能力を高める。美術の知識はゲームの道具として用いられ特段意識されない。
③対話による鑑賞(註3)~複数名のディスカッションによって作品解釈を行う。美術の知識は作品解釈が深まる資源であり、他の知識と平等な存在として働く。
いずれの場合も、美術の知識はカードや友達や場などの「間」に存在し、対象年齢や使われる場面などによって性質を変化させる。「正解」があるというような確固たるものではなく、あえて喩えれば柔らかな生き物のように学習活動の中にある。
このように書くと「美術の知識に正解はないのか」となるのだが、そうではない。美術の知識に「正解」はある。その一つが「美術検定」である。そこでは美術の知識は時代やジャンルなどで細かく分類されていて、1級から4級まで難易度のヒエラルキーが構築されている。今年度、私のゼミの学生がこれに取り組んでいる。4級か3級に合格するために、作品と題名、美術運動について「正解」を覚えている真っ最中だ。
彼女たちの様子を見ていると、アートゲームや対話的な鑑賞を行っているときとは、知識に対する意識がかなり違う。彼女たちは、それを巨大な壁のように感じている。おそらく、彼女たちにとって美術の知識は、物のような厳然たる実体で、自分たちの活動に先立って存在するように見えるのだろう。しかし、彼女たちは、それをどうにか克服しようとしている。その姿を追うことで美術の知識について考えてみようと思う。
まず学生は、作品を分類的に見ることが難しい。花瓶や人など何が描いてあるかは分かるし、その雰囲気や主題の解釈もできるが、作家や○○派とつながらない。そこで、作品を、形や色、タッチなど視覚的に分けて見る。例えば「セザンヌの人物や風景、静物などから形態的な共通性をつかむ」「マチスやルオーの強い色や筆触をとらえる」ということをしている。つまり、頭の中に「セザンヌ」や「野獣派」という視覚的な箱をつくろうとしているのである。
次に、作品を位置的に見ることが難しい。どれを見てもつながりなくバラバラに見えてしまう。そこで、ギリシャ、中世、ルネサンス、アカデミー、印象派などを勉強して、作品を歴史や社会にシンクロさせる。「美術や美術家という概念が成立したのはいつごろか」「西洋画が流入することで日本画が成立した」「絵の具チューブの発明と絵画の動産化」「江戸やパリの都市の成立と風景画」「西洋偏重の単線型としての美術史」なども学習する。つまり、作品を歴史的、社会的な文脈を持つものとしてとらえようとするわけである。
さらに、作品を自分の視点から見ることが難しい。特に初めて出会う作品は生活と遠く無関係に見える。そこで、作品を自分に引き寄せる。イギリスでお土産を選んだ学生は「カンスタブルはチョコレート菓子のパッケージ、典型的なイギリスの田園風景のアイコンになった」という話に頷く。家がお寺さんという学生は、阿弥陀と弥勒の違いを「悟った後は座る、悟る前には足を組んで考える」というポーズの違いで理解する。つまり、作品をできるだけ自分の経験や生活に即して見ることで理解しようとするのである。
もちろん作品には、それが表そうとしている主題や内容、メッセージなどの要素もある。対話による鑑賞などでは重要な問題だ。しかし、彼女たちはそれほど重視していない。なぜなら、限られた準備期間では、一枚一枚の作品理解に時間はかけられない。また過去問を調べると主題や内容に関する問題は案外少ない。するとこの点については、比較的飛ばしていい要素ということになる。
そして、見逃してならないのは、そのような学習、言い換えれば正解探しというテストに参加することによって、学生のそれぞれが、ゼミというコミュニティを構築し、そのメンバーとしてのアイデンティティを達成しているということだ。簡単に言えば、私の美術教育ゼミに参加しなければ、このようなことにはならなかった。美術の知識は、美術教育ゼミの実践と切り離せない。美術の知識は、コミュニティを維持し展開するための材料や道具になっている。
まとめれば、美術検定に参加するという事例において、美術の知識は、①作品を視覚的な特徴で分類しようとする行為、②歴史的、社会的な文脈をもったものとして位置付ける行為、③自分の経験と結びつける行為、によって成立していた。さらに、学問世界の入り口としてのゼミのコミュニティ、メンバーとしてのアイデンティティに関する実践として成立していた。言い換えれば「美術の知識は美術的な行為とともにある」「美術の知識は美術的な実践に埋め込まれている」ということができるだろう(註4)。
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註1 筑波大学の直江俊雄先生らが中心になって、隔年で「高校生アートライター大賞」を開催している。
註2 十数年前に愛知教育大の藤江充先生が日本に導入し、現在美術館から学校現場へと広がりを見せている。
註3 アメリア・アレナスやDIC川村記念美術館の実践を起点に、帝京科学大学の上野行一先生が対話をふんだんに用いる日本の学校教育へ接続した。
註4 おそらく、大学とか美術館とかの「学問」世界も同様だろう。例えば、美術の知識は細かく分類され、ヒエラルキーで構築され、正解がある。保有していないとメンバーにはなれない。マルチカルチャリズム、ポストコロニアルなど、固定的な見方を変えたり、思考の道具として役立ったりする。常に変化するので獲得にゴールはなく、入門前も、入門後も日々勉強するetc。。

聖徳大学 児童学部 児童学科教授 芸術学博士(筑波大学)
小中学校教諭、宮崎県立美術館学芸員、文部科学省教科調査官を経て今年4月より現職に着任。
近著は『子どもの絵の見方―子どもの世界を鑑賞するまなざし』(東洋館出版社)など。
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