アートナビゲーター企画!「池袋モンパルナス」勉強会レポート
近年、伊藤若冲をはじめとする江戸絵画が日本美術のブームを巻き起こし、現代アートもまた若い人たちを中心に高い人気を博しています。その一方で、明治以降の日本近代美術、特に昭和戦前期の美術については、現在の人びとがその時代に対していだく暗いイメージのせいか、一般的にあまり注目されていないようです。
人気が集まる作家や作品は優れていて、人の目を引いていないものは注目に値しないのか……。そんな疑問をいだいきつつ、去る7月20日(土)に東京・池袋にある豊島区医師会館で開催された第2回アートナビゲーターのための勉強会 「池袋モンパルナスとは?」講演会に参加してきました。講演を企画されたのは、美術検定1級を取得したアートナビゲーター・大木隆太郎さんです。大木さんはアートナビゲーター同士が互いに自己研鑽し合える機会を、という思いで度々講演を企画されています。
申し遅れました。アートナビゲーターの高谷 守(たかたに まもる)です。今回は私からこの講演会の内容を少し詳しくレポートさせていただきます。
人気が集まる作家や作品は優れていて、人の目を引いていないものは注目に値しないのか……。そんな疑問をいだいきつつ、去る7月20日(土)に東京・池袋にある豊島区医師会館で開催された第2回アートナビゲーターのための勉強会 「池袋モンパルナスとは?」講演会に参加してきました。講演を企画されたのは、美術検定1級を取得したアートナビゲーター・大木隆太郎さんです。大木さんはアートナビゲーター同士が互いに自己研鑽し合える機会を、という思いで度々講演を企画されています。
申し遅れました。アートナビゲーターの高谷 守(たかたに まもる)です。今回は私からこの講演会の内容を少し詳しくレポートさせていただきます。
昭和の初めから戦前にかけて、池袋西口から椎名町(しいなまち)周辺にかけて多くのアトリエ付き貸家やアパートが建てられ、そこに多くの若い芸術家たちが集まってきました。彼らは芸術の都パリへの憧れからこの辺りを「池袋モンパルナス」と呼び、日夜芸術を熱く語り合い切磋琢磨して制作に励みました。そして、その中から近代日本を代表する多くの芸術家が生れたのです。
※現在の池袋モンパルナス付近の地図などはこちら
この「池袋モンパルナス」の実像に迫る今回の講演の講師は、平塚市美術館館長代理兼学芸主管を務める土方明司(ひじかためいじ)先生。日本近代洋画史の専門家です。
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講演会は、この勉強会を最初から立案し実現に漕ぎ着けたアートナビゲーターの大木さんの司会で始まりました。講師のご紹介に続き、豊島区に新しい芸術文化施設「芸術文化資料館」(仮称)を設立する事業に取り組まれている、豊島区文化商工部文化デザイン科ミュージアム開設準備グループの飯島容子さんのご挨拶へと進み、いよいよ土方先生のご登壇です。
土方明司先生は、日本近代美術史がまだ学問として成立していない状態にあった1980年代前半、練馬区立美術館(1985年10月開館)の設立準備メンバーとして地元練馬ゆかりの作家をテーマとした館自主企画の立ち上げに奔走されました。1988年には広島県立美術館との共催で「靉光(あいみつ)::青春の光と闇」展を企画する中で、当時存命中であった井上長三郎(1906-95)、古沢岩美(ふるさわいわみ1912-2000)など「池袋モンパルナス」の画家たちから直接に靉光(1907-46)についての貴重な話を聞く事ができたとの経験談をご披露いただきました。
講演は、当時の様子を伝える写真や関連画家の代表的な絵画作品をスライドで映しながら、大正から昭和終戦直後までの日本近代洋画界の状況を振り返りつつ、「池袋モンパルナス」のアトリエ村での画家たちの活動の様子を活写するものでした。
お話が時代を前後しつつ当時の美術動向と画家たちのエピソードを交互に織り交ぜて進められ、しかも「アートナビゲーターの方はご存知のことでしょうが」と専門的な事項を容赦なく次々と繰り出されたこともあって、講演内容をレポートすることについて私自身の力不足を強く感じざるを得ません。しかしながら、土方先生のお話は「池袋モンパルナス」を通じて大正期から昭和戦時下の日本近代洋画史を通観する非常に興味深いものでしたので、当日配布された年表資料と書き取った講義メモをもとにして私なりに再構成してお届けすることにいたします。
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【1】大正期新興芸術運動と「池袋モンパルナス」前史
第一次世界大戦下の好況期、池袋西郊に鉄道が開通し市街地が広がり始めた頃、里見勝蔵、佐伯祐三ら東京美術学校(現在の東京藝術大学美術学部の前身)に通う若い画学生たちが椎名町・落合付近に住み始める。彼らは1920年代前半に相次いでパリ留学に旅立った。
柳瀬正夢(やなせまさむ;1900-45)や村山知義(1901-77)らが関東大震災の直前に結成したダダイストのグループ「マヴォ(MAVO)」の登場を分水嶺として、岸田劉生(1891-1929)や河野通勢(こうのみちせい1895-1950)ら白樺派のヒューマニズムを基調とした大正期の美術が大きく転換し、新興芸術運動のアヴァンギャルド(前衛美術)とプロレタリア美術運動が勃興する。
※年表はクリックすると拡大します。以下同様
【2】太平洋画会研究所での研鑽と日本フォーヴィスム運動の興隆
1889(明治22)年、当初西洋美術を排して設立された東京美術学校に対抗して当時の洋画家たちが立ち上げた明治美術会は、1896(明治29)年に黒田清輝(1866-1924)ら外光派の画家たちが脱会して白馬会を結成し、東京美術学校に黒田を中心とした西洋画科が設置されアカデミズムの中核を占めるようになると、次第に勢力が衰え1901(明治34)年に解散に追い込まれる。この明治美術会の後身として結成され1902(明治35)年に第1回展を開催した太平洋画会(1901年設立)は、昭和初期には白馬会・東京美術学校に対抗できる在野唯一の存在だった。
太平洋画会の教育機関、太平洋画会研究所(1904年設立、24年改称)やそれを学校化した太平洋美術学校(1934年認可)に、地方から上京して来たまだ十代の若い画家たちが続々と入学し、校長の中村不折(なかむらふせつ1866-1943)の下で徹底してデッサン力を叩き込まれる。彼らこそがやがて「池袋モンパルナス」の全盛期を謳歌することになる画家たちだった。
一方、1920年代前半に渡欧した一世代年上の里見勝蔵や前田寛治らは、帰国後「1930年協会」を設立し、日本のフォーヴィスム(フォーヴィズム)運動の中心的存在となる。彼ら留学組はパリで送った自由奔放な生活から自らを「パリの豚児たち」と称した。
【3】独立美術協会と「池袋モンパルナス」の最盛期
1930年代、日本近代洋画は成熟段階に到達し、明治以来の西洋美術の受容史を踏まえて「日本人にとっての洋画とは何か」という原点を見直す動きが生れていた。この時代思潮の中で、フォーヴィスム、シュルレアリスム、ダダなどのフランス美術の直輸入でない新時代の日本洋画の確立を目指して独立美術協会が結成された。しかし、1930年協会のフォーヴィスム志向を継承する独立美術協会は、設立当初から内部にシュルレアリスムという鬼子(おにご)を抱え込んでいた。審査をめぐる里見(フォーヴィスム)と福沢(シュルレアリスム)の反目は後に協会の分裂を招くことになる。
一方、1930年代中頃の「池袋モンパルナス」は青春真っ盛りだった。すずめが丘アトリエ村で詩人・花岡謙二(1887-1968)が営む学生相手の下宿「培風寮」(ばいふうりょう)は、この頃には靉光ら貧乏画家が住まう無料の賄い無しのアパートになっていた。さくらが丘パルテノンのアトリエ兼住居は、水道の引かれていない狭い台所とわずか2畳の寝室に対して14~15畳もの広いアトリエを備えた特異な間取りとなっていた。その「一国一城」の主である画家たちは互いに親しく交友しつつ自らの作品の制作に励んだ。
「池袋モンパルナス」の芸術家たちの中で、寺田政明は面倒見の良い兄貴分の存在であり、寺田宅は文学者と画家の集うサロン的な交流の場となっていた。「池袋モンパルナス」の名付け親である小熊秀雄は寺田と仲が良く、詩人ながら寺田との出会いをきっかけとして絵を描くようになっていた。
【4】シュルレアリスム運動の弾圧と戦時下の画家たち
長谷川利行と小熊秀雄が没した1940年に、独立美術協会から分離して美術文化協会を結成したばかりのシュルレアスムの画家たちにとって、1941年の衝撃は計り知れないものがあった。それは福沢の検挙直後に起きた、展覧会での出品をめぐる自主検閲や、多くの作家の前衛性が一変した作風からうかがい知ることができる。
そのような時代の中で「池袋モンパルナス」の若手画家たちは「新人画会」を結成し、時局から距離を置いた内容の作品を発表し続けた。松本竣介の代表作「立てる像」は、過剰に英雄視すべきではないが、反戦的というよりヒューマニズムを強く感じさせるものがある。靉光が第3回新人画会(1944年9月)に出品した白衣の「自画像」(東京国立近代美術館蔵)は、それ以前の作風とは異なりリアリズムへの回帰がうかがえる。この作品は、出征にあたって多数の作品を処分した後に友人に託して出品された。
【5】戦後の「池袋モンパルナス」
若い画家たちを戦争で失ったアトリエ村の地域は、戦災で住処を失った一般の人びとが住むようになっていったが、高山良策(1917-82)や山下菊二(1919-86)ら周辺に住んでいた画家たちは1947(昭和22)年に「前衛美術会」を結成、「池袋モンパルナス」は終戦直後の騒然とした社会状況を捉える前衛美術運動の拠点ともなった。
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2時間に及ぶ熱を帯びた講演中、さまざまなエピソードを聞くことができました。土方先生は、麻生三郎に直接会って当時の話を聞く機会を得られたそうですが、画家の放つ強烈な存在感に圧倒されたことを語っておられました。
講演後は会場で当日の参加者による交流会が催されました。遠方から来られた方々による近況報告に続く、司会の大木さんによる土方先生への「8つの質問」では予想外の先生のご回答に場内が大いに沸き返り、先生を取り巻く人の輪がいつまでも絶えませんでした。
<土方明司氏プロフィール>
平塚市美術館学芸主管。日本近代洋画史の専門家で、練馬区立美術館の立ち上げに従事。20年間の同館勤務時代には、主に日本近代洋画の展覧会を数多く企画。2005年より平塚市美術館に異動、「河野通勢(こうのみちせい)展」(2008年)、「長谷川潾二郎(はせがわりんじろう)展」(2010年)、「画家たちの二十歳の原点」(2011年)、「水彩画 みづゑの魅力」(2013年)など、話題性の高い展覧会を次々に手がける。昭和時代の美術評論家、美術史家で元神奈川県立近代美術館館長の土方定一(ひじかたていいち)氏の長男。
プロフィール
小学校時代から図工・美術が苦手科目だったのですが、歴史好きもあり古今東西の美術史に足を突っ込み始めました。腕試しとて2009年に美術検定2級を受験、2010年には1級に合格。現在は休日を中心に足繁く美術展に通い、古代から現代まで美術作品を通じてそれぞれの時代への理解を深めています。美術検定を受験して一番良かったと思うことは、自分の好みや得意な分野以外の作品についてもその価値を認め、偏狭な美術マニアやアートオタクとは違った、アートに対する公正でしなやかな姿勢を持ったアートナビゲーターの方々と出会えたこと。アートへのバランスのとれた広い視野を養えることが美術検定受験の最大のメリットだと思います。
※現在の池袋モンパルナス付近の地図などはこちら
この「池袋モンパルナス」の実像に迫る今回の講演の講師は、平塚市美術館館長代理兼学芸主管を務める土方明司(ひじかためいじ)先生。日本近代洋画史の専門家です。
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講演会は、この勉強会を最初から立案し実現に漕ぎ着けたアートナビゲーターの大木さんの司会で始まりました。講師のご紹介に続き、豊島区に新しい芸術文化施設「芸術文化資料館」(仮称)を設立する事業に取り組まれている、豊島区文化商工部文化デザイン科ミュージアム開設準備グループの飯島容子さんのご挨拶へと進み、いよいよ土方先生のご登壇です。
土方明司先生は、日本近代美術史がまだ学問として成立していない状態にあった1980年代前半、練馬区立美術館(1985年10月開館)の設立準備メンバーとして地元練馬ゆかりの作家をテーマとした館自主企画の立ち上げに奔走されました。1988年には広島県立美術館との共催で「靉光(あいみつ)::青春の光と闇」展を企画する中で、当時存命中であった井上長三郎(1906-95)、古沢岩美(ふるさわいわみ1912-2000)など「池袋モンパルナス」の画家たちから直接に靉光(1907-46)についての貴重な話を聞く事ができたとの経験談をご披露いただきました。

お話が時代を前後しつつ当時の美術動向と画家たちのエピソードを交互に織り交ぜて進められ、しかも「アートナビゲーターの方はご存知のことでしょうが」と専門的な事項を容赦なく次々と繰り出されたこともあって、講演内容をレポートすることについて私自身の力不足を強く感じざるを得ません。しかしながら、土方先生のお話は「池袋モンパルナス」を通じて大正期から昭和戦時下の日本近代洋画史を通観する非常に興味深いものでしたので、当日配布された年表資料と書き取った講義メモをもとにして私なりに再構成してお届けすることにいたします。
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【1】大正期新興芸術運動と「池袋モンパルナス」前史

柳瀬正夢(やなせまさむ;1900-45)や村山知義(1901-77)らが関東大震災の直前に結成したダダイストのグループ「マヴォ(MAVO)」の登場を分水嶺として、岸田劉生(1891-1929)や河野通勢(こうのみちせい1895-1950)ら白樺派のヒューマニズムを基調とした大正期の美術が大きく転換し、新興芸術運動のアヴァンギャルド(前衛美術)とプロレタリア美術運動が勃興する。
※年表はクリックすると拡大します。以下同様
【2】太平洋画会研究所での研鑽と日本フォーヴィスム運動の興隆

太平洋画会の教育機関、太平洋画会研究所(1904年設立、24年改称)やそれを学校化した太平洋美術学校(1934年認可)に、地方から上京して来たまだ十代の若い画家たちが続々と入学し、校長の中村不折(なかむらふせつ1866-1943)の下で徹底してデッサン力を叩き込まれる。彼らこそがやがて「池袋モンパルナス」の全盛期を謳歌することになる画家たちだった。
一方、1920年代前半に渡欧した一世代年上の里見勝蔵や前田寛治らは、帰国後「1930年協会」を設立し、日本のフォーヴィスム(フォーヴィズム)運動の中心的存在となる。彼ら留学組はパリで送った自由奔放な生活から自らを「パリの豚児たち」と称した。
【3】独立美術協会と「池袋モンパルナス」の最盛期

一方、1930年代中頃の「池袋モンパルナス」は青春真っ盛りだった。すずめが丘アトリエ村で詩人・花岡謙二(1887-1968)が営む学生相手の下宿「培風寮」(ばいふうりょう)は、この頃には靉光ら貧乏画家が住まう無料の賄い無しのアパートになっていた。さくらが丘パルテノンのアトリエ兼住居は、水道の引かれていない狭い台所とわずか2畳の寝室に対して14~15畳もの広いアトリエを備えた特異な間取りとなっていた。その「一国一城」の主である画家たちは互いに親しく交友しつつ自らの作品の制作に励んだ。
「池袋モンパルナス」の芸術家たちの中で、寺田政明は面倒見の良い兄貴分の存在であり、寺田宅は文学者と画家の集うサロン的な交流の場となっていた。「池袋モンパルナス」の名付け親である小熊秀雄は寺田と仲が良く、詩人ながら寺田との出会いをきっかけとして絵を描くようになっていた。
【4】シュルレアリスム運動の弾圧と戦時下の画家たち

そのような時代の中で「池袋モンパルナス」の若手画家たちは「新人画会」を結成し、時局から距離を置いた内容の作品を発表し続けた。松本竣介の代表作「立てる像」は、過剰に英雄視すべきではないが、反戦的というよりヒューマニズムを強く感じさせるものがある。靉光が第3回新人画会(1944年9月)に出品した白衣の「自画像」(東京国立近代美術館蔵)は、それ以前の作風とは異なりリアリズムへの回帰がうかがえる。この作品は、出征にあたって多数の作品を処分した後に友人に託して出品された。
【5】戦後の「池袋モンパルナス」
若い画家たちを戦争で失ったアトリエ村の地域は、戦災で住処を失った一般の人びとが住むようになっていったが、高山良策(1917-82)や山下菊二(1919-86)ら周辺に住んでいた画家たちは1947(昭和22)年に「前衛美術会」を結成、「池袋モンパルナス」は終戦直後の騒然とした社会状況を捉える前衛美術運動の拠点ともなった。
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講演後は会場で当日の参加者による交流会が催されました。遠方から来られた方々による近況報告に続く、司会の大木さんによる土方先生への「8つの質問」では予想外の先生のご回答に場内が大いに沸き返り、先生を取り巻く人の輪がいつまでも絶えませんでした。
<土方明司氏プロフィール>
平塚市美術館学芸主管。日本近代洋画史の専門家で、練馬区立美術館の立ち上げに従事。20年間の同館勤務時代には、主に日本近代洋画の展覧会を数多く企画。2005年より平塚市美術館に異動、「河野通勢(こうのみちせい)展」(2008年)、「長谷川潾二郎(はせがわりんじろう)展」(2010年)、「画家たちの二十歳の原点」(2011年)、「水彩画 みづゑの魅力」(2013年)など、話題性の高い展覧会を次々に手がける。昭和時代の美術評論家、美術史家で元神奈川県立近代美術館館長の土方定一(ひじかたていいち)氏の長男。

小学校時代から図工・美術が苦手科目だったのですが、歴史好きもあり古今東西の美術史に足を突っ込み始めました。腕試しとて2009年に美術検定2級を受験、2010年には1級に合格。現在は休日を中心に足繁く美術展に通い、古代から現代まで美術作品を通じてそれぞれの時代への理解を深めています。美術検定を受験して一番良かったと思うことは、自分の好みや得意な分野以外の作品についてもその価値を認め、偏狭な美術マニアやアートオタクとは違った、アートに対する公正でしなやかな姿勢を持ったアートナビゲーターの方々と出会えたこと。アートへのバランスのとれた広い視野を養えることが美術検定受験の最大のメリットだと思います。
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