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森美術館「ラーニング・ウィーク」レポート 第2回

こんにちは、「美術検定」実行委員会事務局です。
今回は、先月、森美術館が主催した「ラーニング・ウィーク」について、国際シンポジウム「現代美術館は、新しい『学び』の場となり得るか? エデュケーションからラーニングへ」を中心にしたレポートをお送りする、第2回目です。


セッション2:新しい学びの場とは?

シンポジウム後半は、水戸芸術館時代から美術館の教育普及の軌跡を見つめてきた横浜美術館の館長逢坂恵理子さん、コミュニティ型ミュージアムとして開館したアーツ前橋館長の住友文彦さんが、それぞれの館の教育普及活動を紹介することから始まった。

逢坂さんは、まず、社会の現状を「グローバル化とガラパコス化」、「対立と紛争による富の一極集中、気候変動」といったキーワードでまとめ、その状況のなかで美術館が「現在・過去・未来」にわたる長期的な視点に立って進化する重要性を語った。その考え方の具現化の例として、横浜美術館が行う活動方針と学芸員・教育普及担当・司書の協働スタイルや実践事例を紹介していった。最後に「美術が与えてくれるもの」として、観察力や思考力を鍛えること、俯瞰的な気付き、他者との関わり、知らないことへ寄せる好奇心などを挙げて、発表を締めくくった。

一方、住友さんは、アーツ前橋で行われた白川昌生さんのプロジェクトを例に、街・その住人たちと美術館の関わり方や、ミュージアムが個人のプライベートに入り込む暴力性に言及した。また、アーティストが「見えない感性に形を与えるスキル」をもつ存在であること、彼らによって可視化されたさまざまな感性や考えが、「展覧会という形式」をとることで観客の目に見えるようになる意義を話す。同時に、完成形がない感性を表現するために「展覧会という形式」そのものが足かせになる可能性を指摘した。加えて、人間の生に美術館が近づけるのか、美術館は感性を管理して均一化する働きに加担をするのではないか、これからの美術館には、文化人類学や生態学などの視点も必要なのではないか、という問題提起も行った。
※住友さんは、同館が進行中の長期プロジェクトに関連して、問題提起を行っている。

session2-12人の発表を受け、テートのアナ・カトラーさん、グッゲンハイム美術館のナット・トロットマンさんが加わり、ディスカッション「新しい学びの場とは?」が始まった。ここではまず、美術館の「場」が討議の中心に持ち出された。カトラーさんの「ラーニングを可能にするのは、どのようなスペースなのかを考えることは重要」という意見を皮切りに、「ラーニング専用のスペースを設けることが、キュレトリアルとエデュケーションに壁があることを示しているのではないか」(トロットマンさん)、「美術館はプライベートなスペースで行われるプロジェクトをパブリック化できる場であり、地域としての結節点としての役割を果たせる。一方で、例えば不登校の子どもにとっては静かで安全な場所」(住友さん)、「美術館のなかは自由を容認してくれる温かい雰囲気をつくる必要がある。スペースの心地よさが重要」(逢坂さん)など、それぞれの館の実体験に基づいた議論が交わされた。
写真左から、ロットマンさん、逢坂さん、カトラーさん、住友さん、モデレーターの片岡さん
※画像はすべてクリックで拡大

session2-2次いで、エデュケーションからラーニングへのシフトについて歴史的な背景や、テートとグッゲンハイム美術館について、ラーニングに対するキュレーターやコンサヴァターをはじめとする美術館スタッフの視点についても意見が述べられた。さらに、モデレーターより投げかけられたのは「美術館にとっての『観客』とは、誰のことを指すのか。森美術館の場合は、観光客も多いがリピーター、海外の専門家たちなど多様な人々が対象。責任感やオーナーシップを意識するのが難しいが、横浜や前橋はどうか」、という問いかけ。「横浜は東京に次ぐ自治体。また、東京よりも歴史が浅く、地元企業の横浜志向は強い。間口は広く、奥行きは深く考える必要がある」と逢坂さんは応える。住友さんは「私たちの館にとって重要なのはお隣さん。(開館前の)準備室をまちなかに置いてもらったことで、オーディエンスの顔が見える」と返した。その後も観客、アーティストにとってのラーニング・プログラムの役割について意見交換が続く。ロットマンさんは、「これはアートにとって本当によいことか」「社会的正義を使うことはいいことなのか」という問いかけを、美術館自体が常に繰り返さなくてはならないという喚起を促した。

このセッションの総括として、日本でラーニングが実現化されるポテンシャルの高さ、美術館単体で活動することの限界、そして大学や団体など外の組織との協働で、地域の文化的・歴史的な文脈でものをつくっていくことへの可能性などが語られた。


「ラーニング・ウィーク」で試みられたもの

シンポジウム翌日から、1週間にわたり、9つのプログラムが展開された。それぞれ、今までのプログラムとは少し異なったことが試みられたようだ。

例えば、「N・S・ハルシャ展」の「アーティスト・トーク」では、アーティストが誰かと対談したり、キュレーターの質問に答えたりという形式ではなかった。1つの作品にフォーカスし、その作品についてのみアーティストと観客が語り合うというものであった。これは、森美術館の一般観客向けプログラムでは初の試みということ。ふだんのアーティスト・トークに比べ、アーティストと観客の間にたくさんのコミュニケーションが生まれている。

camp13つプログラムを展開した「ラーニング・キャンプ」はどうだろう。「私たちは学んでいる:美術館と実験的なアート・ラーニングのこれから」では、美術館の外で「ラーニング」を実践している人々をコメンテーターとした、ディスカッションである。本来は、観客を巻き込みたかったと思われるが、パネルディスカッションのような形で終了する結果となった。これは私たち観客の「聞き手意識」にも問題があるだろう。ただ、コメンテーターの発言に対し、「ラーニングも結局、それを実践している人と美術館のためにやっているだけではないか。われわれ観客のためではないのでは?」といった、厳しい声が客席から上がった。このような自由な意見が客席からもっと飛び交うようになる「場」、それがラーニングの「場」の創造につながるはず、と森美術館では受け止めているそうだ。

もう1つの「ラーニング・キャンプ」プログラムである「アートと社会:エンゲイジメントという『つながり』を学ぶこと」、そして同館初のシニア・プログラム「シニアって何? シニアって誰?」は、外部NPOとの協働企画で進められたという。この2つのプログラムでは、小グループでのディスカッションやワークショップが採り入れられ、その「場」にいる人はもれなく「聞く側」ではなく「考えて意見を言う側」になる仕掛けが施されていた。「アートと社会……」では、最初は出演者による問題提起がされ、それらをヒントに小グループで話し合うものだった。最後は各グループの意見をシェアする進行だ。「シニアって何?……」は、参加者全員による「自分の考えるシニア」について語りながらの自己紹介が、最初から盛り込まれていた。途中から「ティーンズ・プログラム」に参加中の10代の若者たちを交え、「N・S・ハルシャ展」の作品をフックに、アートのことからシニアのことまで、世代を超えた意見交流を生む機会となっていた。
camp2 camp3
左/「アートと社会:エンゲイジメントという『つながり』を学ぶこと」ワークショップの風景
右/「シニアって何? シニアって誰?」グループディスカッションの1コマ


プログラムの全てが完成形を目指したものではなく、同館の「ラーニング・プログラム」を創造するための「試み」だったことが、プログラムに参加することで少しずつ伝わっているのではないか。「今回、シンポジウムやプログラムを通じて、たくさんの声をいただきました。これからは私たちが外に出ていくこと、観客の方々と一緒にプログラムを考えていくこと、そのような方向でラーニング・プログラムを創っていこうと考えています」と、同館の高島さんは話す。


アートはいつも時代を映すひとつの鏡。本ブログの読者のみなさんなら、このことをよくご存知のはずだ。現代のアーティストたちは、私たちが生きる、この時間に起こっていることを敏感に察する。そして作品やプロジェクトを通し、考えることを促してくる。私たちが、アーティストの制作現場に立ち会うチャンスはなかなかない。しかし、現代美術館はその一部だけでも、彼らの思いや活動を発信してくれる。それをキャッチした私たちが何を考えて、何をするのか。私たちが「見る側」「聞く側」と決め込む態度を変えると、現代美術館は、私たちにとっても、「使える」可能性をもったフィールドに見えてくる。現代美術館が取り組む「ラーニング」は、私たちがアートを通して社会に参加するための、ひとつのきっかけみたいなものかもしれないと思った1週間だった。

※掲載画像は全て=撮影:御厨慎一郎 画像提供:森美術館

取材・文/染谷ヒロコ(本ブログ編集)

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