美術検定オフィシャルブログ~アートは一日にして成らず

「美術検定」のオフィシャルブログです。

PREV | PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

美術の知識と美術鑑賞 vol.3

こんにちは。「美術検定」実行委員会事務局です。
お盆らしい暑さが到来しましたね。
受験予定の方は、その上に受験勉強でヘロヘロになっていませんか?

さて、
本日は、奥村高明氏の連載「美術の知識と美術鑑賞」第3回目をお送りします。
この連載は「美術検定」1級を受ける方はもちろん、
美術館などで来館者へのガイドツアーなどをされている方々にも大切な要素がたくさん入っています。
今回もどこが大切なのか、ぜひ、考えながら読んでみてください。


今回は「対話的な鑑賞」の場面で、美術の知識がどのように用いられているか検討してみたい。
ちなみに私は「対話型鑑賞」とは言わない。
鑑賞は方法ではなく、創造的な相互行為だと思っているからだ。


東京国立近代美術館にアントニー・ゴームリーの《反映/思索》という作品がある。なかなか作品名や年代を覚えられない私が、しっかりと作品名を覚えているのにはわけがある。自分の行ったギャラリートークで、子どもたちが作品名を効果的に鑑賞に用いたからだ。

それは、ある鑑賞教育の研修会で小学生対象のギャラリートークだった。私のトークの特徴は「いきあたりばったり」である。流れの中で鑑賞する作品を子どもたちと決める。作品の何を伝えるかもあらかじめ考えない。このときは学芸員にも参加してもらって知識や解説は任せた。私はひたすら子どもの意見を汲み上げながら進行に専念した。

なぜそうするかというと、美術鑑賞は予定調和ではないからだ。
ギャラリートークの醍醐味はジャズのセッションのような即興性、その場のスリリングな展開だと思っている。
美術館や展示室という空間の中で起こる創造的な出来事が鑑賞で、そのことをみんなで楽しむ。
いや、トーカーが一番楽しんでいるのかもしれない。


話を戻そう。

1つ目の作品を終えて、展示室外に出たときだった。ある子どもが、「あ、あの人がいいんじゃない」といって、窓の近くにある《反映/思索》を指差した。(ここで面白いのは、子どが作品を「人」と言っていることだ。鑑賞の際、よく子どもたちは自分と同じ存在として作品をとらえて発言する)。

《反映/思索》は、自分をかたどってつくられた全く同じ2体の彫刻が美術館の窓の中と外にあり、ガラスに反射する像が本体とぴったり一致するほど完璧に向かい合う、ただし外の彫刻だけは雨風に打たれるから少々錆びているという作品だ。

最初のうち、子どもは外に作品があることに気づかなかった。外の彫刻は中の彫刻の反射だと思っているのだ。でもそっくりに映っていることが不思議でしょうがない。そのことについて考えるうちに、一人の子どもが、キャプションを指差した。
(以下、=学芸員、=進行役の私、=子ども 読みやすくするために発言を一部修正している)


「そこに書いてある!アントニー・ゴームリー…はんえいと……しさく?」
「ああ、だから鏡に映っている(反映している)んだ」
「あれ?向こうにいるじゃん」
「いる!いる!」「おんなじもん、いるじゃん!」。


もう一体が「いる」ことに気付いた子どもたちは外に出た。(ここもそう、「ある」ではなく「いる」のだ。子どもは作品を生き物のように取り扱う)。そして今度は錆びた彫刻を前に、中の一体との違いについて対話が続いた。


「さっきよりさ、色違う」
「錆びたような…」
「ほんとに錆びているよ。オレンジ色だよ」
「色違い?」
「どうして外側の人だけ色が違うんだろう」
「こっちが朝で、中が夜みたいな…」
「性格が違う!だって同じ性格だったら同じ色にするじゃん」

「なぜ向き合ってるの?」
「どちらかがさびしいんじゃない」
「思索って書いてあるから、どっちかが、どっちかを探っている」
「反映ってのは『思索の反映』っていうのがあるんじゃない?」
「なるほど、考えていることが反映し合うという意味だね」

「でも、買ったときは同じ色だったんだよ、これ」
「え~っ!」
「『(外においていたら)錆びちゃったんですけど、どうしましょうか』って相談したら作者が『あ、どんどん錆びさせといて』って」
「もう一つの自分として、わざと錆びさせた…」
「錆びさせてて、色がどんどん変わっちゃったら、こわいって思うよ、たぶん…でも、なんで自分はそうなっちゃんだろうって…」
「そうやって思索してるんだ」
「それでだまりこくってんじゃない、口がないから」

(《反映/思索》は目や口などが省略して表現されている、子どもはそれを沈黙ととらえた)

その後も、子どもたちは思考力や判断力を駆使して、年月や人生との関わりなどまで話し合った。「思索」「反映」という言葉の意味も実感的にとらえていた。
それは鑑賞を教育に取り入れる理由の一端を十分示していると思うが、本稿で押さえたいのは、知識の問題である。


ここで使われている知識は、錆びていること、色の変化、向かい合うことなどの経験的な知識、そして、キャプションに示された作家名や作品名、学芸員が提示する作品情報などの美術的な知識である。それらが、対話の中で子どもたちに全て平等に用いられている。確かに、一つの鑑賞活動の中で、いちいち知識に序列をつける必要はない。また、子どもにとって、文化的ヒエラルキーは確固たるものではなく、基本的に知識には上下がない。

でもそれは果たして子どもだけのことなのだろうか?知識には本来ヒエラルキーが存在するのだろうか?

実は「経験的な知識と美術的な知識を区別する」「知識に階層をつける」などは、学問とか、テストとか、講義とか、それが必要な実践で起こる行為だ。言い換えれば、実践がヒエラルキーを要求しているのである。

一方、「対話的な鑑賞」が教えてくれるのは、「美術鑑賞という創造的な行為の前において、美術の知識は他の知識と同列な存在である」ということだ。そして、子どもたちの姿が教えてくれるのは「美術の知識は、他の知識と同じように、鑑賞を深めるのに有効に働く」ということだろうと思う。

*****

奥村高明(おくむら・たかあき)
聖徳大学 児童学部 児童学科教授 芸術学博士(筑波大学)
小中学校教諭、宮崎県立美術館学芸員、文部科学省教科調査官を経て今年4月より現職に着任。
近著は『子どもの絵の見方―子どもの世界を鑑賞するまなざし』(東洋館出版社)など。

| シリーズ「美術の知識と美術鑑賞」 | 08:00 | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

PREV | PAGE-SELECT | NEXT