地域とアートvol.1〜国際シンポジウム「危機の時代におけるアートの自律性」から
こんにちは。「美術検定」実行委員会事務局です。
さて、ここ数年、各地での芸術祭が急増しています。
そこで、不定期ですが、3回にわたり、地域とアートに直接、あるいは間接的に関するシンポジウムや対談のレポートをお送りします。
1回目は、10月18日にゲーテ・インスティトゥート東京で開催された国際シンポジウム「危機の時代におけるアートの自律性について」より、第2部の関連部分を抜粋、レポートします。
さて、ここ数年、各地での芸術祭が急増しています。
そこで、不定期ですが、3回にわたり、地域とアートに直接、あるいは間接的に関するシンポジウムや対談のレポートをお送りします。
1回目は、10月18日にゲーテ・インスティトゥート東京で開催された国際シンポジウム「危機の時代におけるアートの自律性について」より、第2部の関連部分を抜粋、レポートします。

(写真は第1部の様子)
第2部では、美術史家・思想家のヴォルガング・ウルリッヒ氏による基調講演後、北田暁大氏(社会学/メディア史)、津田大介氏(ジャーナリスト/メディア・アクティビスト)、林卓行氏(美術批評/現代芸術論)の3名が、パネリストとしてウルリッヒ教授の講演を受けてそれぞれの意見を延べ、質問をしていきました。その後、ディスカッションに移り、改めて「アートの自律性」というテーマについて討論する構成でした。モデレーターは、近藤健一氏(森美術館キュレーター)が務めました。
(各氏のリンクより経歴がご覧いただけます。以下、敬称は「さん」で統一)
■2つに分断された現代のアート

(写真は第2部より。左がヴァルガング・ウルリッヒさん)
この講演を受けて、北田さんは、2つの傾向のアートの溝や対立が生じてきている真ん中辺りに位置するのがリレーショナル・アートのような動きが考えられるが、それらがどこまで人々と社会を結びつけるきっかけになっているのか、という疑問を提示します。また、自身が実施した2017年の横浜トリエンナーレでの社会調査の結果から、ある程度の収入や学歴を持ちながら、主体的にアートをみることを学ぶ機会がなかった層――マーケット的にもアート愛好者としてもボリュームゾーンになり得るのに、つかめていない層――が一定数おり、この層の開拓が、日本のアートマーケットを広げることにつながるだろうと指摘しました。市場が広がることは悪いことではなく、マーケットが拓かれることによって得られる可能性を3点示しました。1つは助成金や人脈に頼らない表現が可能になり、一部の大スターアーティストのものではない、もっと広い意味でのマーケットが拓く可能性があること。2つ目は自分なりの見方で楽しめる体験ができる手法の開発や教育で考えていくことが、最終的に2つの領域の分断を克服するのではないか。最後に、アートの自律を担保していくような道筋が拓けるのではないか、というものです。
これに対し、ウルリッヒさんは、「商業主義に愛されるアートも、社会的なトピックを扱うキュレトリアル・アートのどちらも、社会を変えるとは言い難い」と応答します。その根拠は、前者は権力と個人のためのアートであり、後者は社会的な意見を誇示するアートであって、本質は社会の変革には興味がないと思われる、という手厳しいものです。さらに、「キュレトリアル・アートは、例えば資本主義批判や移民・難民危機、気候変動による地球温暖化の問題などの政治的・社会的なトピックに依拠しているものの、すでに同じ世界感をシェアしている人だけにしか通用しない。そういったアートを体験することは、同じ世界感を再認識する経験に過ぎない。したがって、こうしたプレゼンテーションは、本質的な意味で社会を変えることはできない」と続けました。
■アーティストとサポーター、
そして他領域の人々が相互理解を学ぶ必要性
2019年のあいちトリエンナーレの芸術監督を務める津田さんは、まず、テーマの1つであるアートの「自律性」の問題は、ジャーナリストの視点からみると、「表現の自由」の問題でもあるととらえ直します。そこから、ウルリッヒさんが提示した現代のアートの例――白人のアーティストが黒人をモチーフにして波紋を呼んだ作品――について、文化的な収奪の問題であると当時に、アーティストがどこまで当事者性を代弁しうるのか、という問題を提起しました。インターネットの波及によって、この当事者性が政治に回収されるのが今の時代の傾向であり、自分が扱っていいもの、あるいはさわっていい対象が当事者以外に触れなくなることは、アーティストの想像力のような、芸術の豊かな可能性をそいでしまうのではという懸念に基づくものです。そのうえで、ウルリッヒさんが講演で問うたことは、アーティストの問題でもあるが、アートと社会をつなぐキュレーターやディレクター(サポーター)の問題でもあるのではないか、と問いかけます。また、そもそもアートの分断を乗り越えるのは可能なのか、可能だとしたら美術業界の人々に問われていることはなんなのか、という質問を立てました。
ウルリッヒさんは、キュレトリアルの領域が非常に若く、その強みと弱みを定義することから始めなくてはならない、と応答します。アーティストもキュレーターも相互に「学び」が必要であり、コラボレーション意識を養うためにも、そのトレーニングができる場や機械、例えば大学などの教育機関、が必要だと言います。アートの分断については、可能性の示唆がありました。「富裕層に人気のある成功したアーティストとそこにコミッションする側双方が、作品と倫理性の関係を学ぶ必要がある」「西洋美術史を振り返ると、アーティストも制作を依頼する側も等しく“質”に責任を持つよう努めてきた結果、長い時間、作品が生き延びてきた」。また、「今後はアーティスト、キュレーター、制作を依頼する人が相互に影響し合うことを学ぶ必要があり、アーティストはそれらの人々と対話しながら、観客も巻き込んでいくことが大切になるだろう」と応えました。
■アートの受け手にも必要な「自律性」

■日本における地域✕アートの難しさ
ウルリッヒさんはここで、改めて「自由(Freedom/ independent)」と「自律性(Autonomy)」の2つの側に分け、「自律性とはアーティストが判断も含めたルールを決めることができること」と定義します。「本当の意味で自律的なアーティストとは、新たなコンセプトを提示できる作家であり、ほかのアートの見方を提示できる作家のこと」と続けました。これに津田さんから、日本については、行政や地域主導の芸術祭などでは、自律性を高めることの難しさが指摘されました。アーティストやディレクターなどのサポーターが批判にさらされる覚悟で作品を作ろうとしても、サポーターの一部を担う行政側が難色を示すと言います。例として、現在進行形のあいちトリエンナーレとともに、過去にヤノベケンジさんの「サンチャイルド」が福島から撤去されたことも示されました。ここで津田さんが指摘したのは、運営側が批判側と根気よく対話していく意志や姿勢がないことです。一方で、社会団体から批判を浴びた会田誠さんの個展のケースを示します。このときは森美術館の館長がステートメントを出し、対象となった作品群をゾーニングすることで展示を続行しました。津田さんによると「これは民間セクターだったからできたことだと思う。行政主導の芸術祭は、商業的なものの対極にあるようで、実は日本では最もしがらみのあるものになっているのではないか。今の(日本の)アートの取り組みよる公共性は、行政や地域というパブリックなところではなく、民間から立ち上がってくるのではないか。皮肉にも、公共的な力を手にしている理解のあるパトロンが一人いたほうがよほど自律したアートが可能になるのでは」と、自分の経験も照らした意見が述べられました。
今、日本各地で行われる芸術祭に、足を運ばれる方も多いでしょう。サポーターとして活動する美術検定受験者も多いと思います。今回のシンポジウムで話された内容は、遠いようで実は非常に身近なことでした。それぞれの立場でどうアートをとらえるのか、どう関わっていくのか。1観客としても、違う見方の人たちと相互理解を深めることが重要だと改めて感じています。
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取材・文=染谷ヒロコ(本ブログ編集)
| 美術館&アートプロジェクトレポート | 11:57 | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑