美術の知識と美術鑑賞 vol.5
こんにちは。「美術検定」実行委員会事務局です。
今日は、奥村高明氏の『美術の知識と美術鑑賞』の第5回目をお送りします。
「美術検定」本試験も終わり、あらためて知識と鑑賞の関係を考えるのにも、ヒントがちりばめられた内容です。
ぜひ、読んでみてください!
今日は、奥村高明氏の『美術の知識と美術鑑賞』の第5回目をお送りします。
「美術検定」本試験も終わり、あらためて知識と鑑賞の関係を考えるのにも、ヒントがちりばめられた内容です。
ぜひ、読んでみてください!
美術検定を無事終え、ほっとしている学生に「美術検定は何か役に立った?」と聞いてみた。すると次の答えが返ってきた。
「普段から美術作品に囲まれていることに気付いた。イタリアンレストランに行ったら壁にボッティチェリの『春』が飾ってあって『あ!イタリアつながり』と思った」
「パロディが見えるようになった。ある作家の作品を見ていて『あれ?』と思ったら、人や情景は違っていたけどダ・ヴィンチの『最後の晩餐』だった」
なるほど学生たちは美術検定を通して自分の世界が少し広がったように感じているようだ。勧めた方としても、学生がそれなりに実りを得たようでほっとした次第である(註1)。
でも、だからこそ、美術の知識について改めて警告したい。「美術の知識は美術鑑賞の妨げにもなる」のだと。
①美術の知識が、美術鑑賞の楽しさを奪う?
「何かを知ることは、何かを分からなくする」。これは知識が持つ根源的な性格である。
人は何かが分かると、次からはその分かった地点から見てしまう。知らなかった時のように見ることができない。美術の知識で言えば、作品を「名画として」見てしまったとたん、鑑賞が名画の確認作業になる。それは思いがけない美しさを発見する楽しさを奪うことになりかねない。
私自身の話で申し訳ないが、学芸員になったら作品よりも作家名や解説など先に見てしまうようになった。一人のときは特にひどい。調査とか仕事上の目的もあるので、素早く行動し、一つの展覧会を数分で済ますこともある。「以前は純粋に楽しんでいたのに」と寂しくなったものだ。
一方、美術鑑賞の楽しさを教えてくれるのが、子どもである。年齢にもよるし、無菌というわけでもないが、おおむね彼らは美術の知識に染まっていない。そのためなのか、色や形をもとに大人が驚くような想像をしたり、ときには作家の主張を言い当てたりすることもある。何より、美術鑑賞を発見的な行為として楽しんでいる。そんな姿を見ていると分かっているのは大人なのか、子どもなのか分からなくなる(註2)。
美術の知識は美術鑑賞の楽しさを奪うこともある。美術を見る側自身がこれに自覚的になるのも大切なことだと思う。
②美術の知識が、美術鑑賞者を受け身にする?
「知識は、参加者を受動的な立場におきやすい」。これは知識の構図に関する問題だ。
知識を伝達するギャラリートークを例に考えてみよう。このときの構図は、進行役は美術の知識を授ける人、参加者はそれを授かる人である。進行役は参加者より知識が豊富で、進行役は、次々と情報を提供する。その情報は貴重で興味深く、なるほどと思うことも多い。
ただ参加者は次々と知識を与えられると消化できなくなり、次第に頭が働かなくなってくる。参加者が意見を聞かれることは少なく、たとえ聞かれても「正解」が待っているだけ。参加者はずっと受動的な存在に置かれる。
では対話的なギャラリートークではどうか。
この場合、進行役は、参加者の身体に飛び込むような気持ちで話を聞き、その言わんとする中身をとらえ、意見の交流を図り、そこに創造的な鑑賞の現場をつくりだす必要がある。しかし、進行役が美術の知識という「正解」を頑固に持ったままだと、意見は表面的にしか聞かれない。参加者は一見能動的に関わっているように見えるだけで、その意見は常に「正解」から判断される。その結果、単発的な会話が作品と人を行き来するだけで、対話という循環は生まれない。参加者は意見を言うように強制されている受動的な存在だ。
美術の知識は参加者を受け身にする働きがある。これは美術を見せる側にとって大事な問題だと思う。
何事にも良い面と悪い面があるし、長所は見ようによっては短所になる。美術の知識を用いる実践には、常に配慮や留保が必要だと思う(註3)。
*****
註1:美術検定は美術の知識を実体化して、それを正面から、いわば堂々とテストとして問う。そのことについて批判もあるが、私は社会的に意味があり役立つと思っている一人である。「美術検定にどのような意味があるのか」「人々の何に役立つのか」などについては、今後明らかにしていきたい。
註2:ところが、子どもを見下す特権的な意識を持っている方にお会いすることがある。正直言ってうんざりする。「じゃあ、あなたは本当に見えているの?」と問いたくなる。今、アボリジニやマオリを劣った文化と見ないように、子どもを劣った存在として見る人は少ない。もしいたら単にその人が劣っているだけだ。
註3:時々「美術の知識がいらない」と断言するもいるが、それも行き過ぎだと思う。だいたい、そのようなことを言っている本人が一般の人よりも遙かに美術の知識を保有していることが多い。
奥村高明(おくむら・たかあき)
聖徳大学 児童学部 児童学科教授 芸術学博士(筑波大学)
小中学校教諭、宮崎県立美術館学芸員、文部科学省教科調査官を経て今年4月より現職に着任。
近著は『子どもの絵の見方―子どもの世界を鑑賞するまなざし』(東洋館出版社)など。
「普段から美術作品に囲まれていることに気付いた。イタリアンレストランに行ったら壁にボッティチェリの『春』が飾ってあって『あ!イタリアつながり』と思った」
「パロディが見えるようになった。ある作家の作品を見ていて『あれ?』と思ったら、人や情景は違っていたけどダ・ヴィンチの『最後の晩餐』だった」
なるほど学生たちは美術検定を通して自分の世界が少し広がったように感じているようだ。勧めた方としても、学生がそれなりに実りを得たようでほっとした次第である(註1)。
でも、だからこそ、美術の知識について改めて警告したい。「美術の知識は美術鑑賞の妨げにもなる」のだと。
①美術の知識が、美術鑑賞の楽しさを奪う?
「何かを知ることは、何かを分からなくする」。これは知識が持つ根源的な性格である。
人は何かが分かると、次からはその分かった地点から見てしまう。知らなかった時のように見ることができない。美術の知識で言えば、作品を「名画として」見てしまったとたん、鑑賞が名画の確認作業になる。それは思いがけない美しさを発見する楽しさを奪うことになりかねない。
私自身の話で申し訳ないが、学芸員になったら作品よりも作家名や解説など先に見てしまうようになった。一人のときは特にひどい。調査とか仕事上の目的もあるので、素早く行動し、一つの展覧会を数分で済ますこともある。「以前は純粋に楽しんでいたのに」と寂しくなったものだ。
一方、美術鑑賞の楽しさを教えてくれるのが、子どもである。年齢にもよるし、無菌というわけでもないが、おおむね彼らは美術の知識に染まっていない。そのためなのか、色や形をもとに大人が驚くような想像をしたり、ときには作家の主張を言い当てたりすることもある。何より、美術鑑賞を発見的な行為として楽しんでいる。そんな姿を見ていると分かっているのは大人なのか、子どもなのか分からなくなる(註2)。
美術の知識は美術鑑賞の楽しさを奪うこともある。美術を見る側自身がこれに自覚的になるのも大切なことだと思う。
②美術の知識が、美術鑑賞者を受け身にする?
「知識は、参加者を受動的な立場におきやすい」。これは知識の構図に関する問題だ。
知識を伝達するギャラリートークを例に考えてみよう。このときの構図は、進行役は美術の知識を授ける人、参加者はそれを授かる人である。進行役は参加者より知識が豊富で、進行役は、次々と情報を提供する。その情報は貴重で興味深く、なるほどと思うことも多い。
ただ参加者は次々と知識を与えられると消化できなくなり、次第に頭が働かなくなってくる。参加者が意見を聞かれることは少なく、たとえ聞かれても「正解」が待っているだけ。参加者はずっと受動的な存在に置かれる。
では対話的なギャラリートークではどうか。
この場合、進行役は、参加者の身体に飛び込むような気持ちで話を聞き、その言わんとする中身をとらえ、意見の交流を図り、そこに創造的な鑑賞の現場をつくりだす必要がある。しかし、進行役が美術の知識という「正解」を頑固に持ったままだと、意見は表面的にしか聞かれない。参加者は一見能動的に関わっているように見えるだけで、その意見は常に「正解」から判断される。その結果、単発的な会話が作品と人を行き来するだけで、対話という循環は生まれない。参加者は意見を言うように強制されている受動的な存在だ。
美術の知識は参加者を受け身にする働きがある。これは美術を見せる側にとって大事な問題だと思う。
何事にも良い面と悪い面があるし、長所は見ようによっては短所になる。美術の知識を用いる実践には、常に配慮や留保が必要だと思う(註3)。
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註1:美術検定は美術の知識を実体化して、それを正面から、いわば堂々とテストとして問う。そのことについて批判もあるが、私は社会的に意味があり役立つと思っている一人である。「美術検定にどのような意味があるのか」「人々の何に役立つのか」などについては、今後明らかにしていきたい。
註2:ところが、子どもを見下す特権的な意識を持っている方にお会いすることがある。正直言ってうんざりする。「じゃあ、あなたは本当に見えているの?」と問いたくなる。今、アボリジニやマオリを劣った文化と見ないように、子どもを劣った存在として見る人は少ない。もしいたら単にその人が劣っているだけだ。
註3:時々「美術の知識がいらない」と断言するもいるが、それも行き過ぎだと思う。だいたい、そのようなことを言っている本人が一般の人よりも遙かに美術の知識を保有していることが多い。

聖徳大学 児童学部 児童学科教授 芸術学博士(筑波大学)
小中学校教諭、宮崎県立美術館学芸員、文部科学省教科調査官を経て今年4月より現職に着任。
近著は『子どもの絵の見方―子どもの世界を鑑賞するまなざし』(東洋館出版社)など。
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