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美術の知識と美術鑑賞 vol.6

こんにちは。「美術検定」実行委員会事務局です。
今日は先週に続き、奥村高明氏の連載をお届けします。
続けて読んでいただくと、vol.5の内容への理解がより深まると思います。
ぜひ、目を通してみてください。


世界は人がつくったモノで埋め尽くされている。田畑、建物や道路、日用品……私たちは山ほど溢れるモノの中から「これは美術で、これは美術ではない」と分けている。

そう、賢明な読者はおわかりだろう。
美術作品は作りだされたら自動的に美術になるわけではない。美術が美術であるための仕組みや見方が必要である。その代表的なものが「物語」「場所」「方法」などだ。

今回は、これらについて簡単に検討しながら、それぞれにおいて、「美術の知識」がどのような働きをしているのか検討してみたい。


①「物語」の一つとしての「美術の知識」

まず「物語」。
絵は生まれたとたんに「名画」になるわけではなく、どれだけ物語をまとったかで「名画」になる。「ダ・ヴィンチはモナリザを最後まで持っていた」「この作家は酒浸りで絵を描き続け早世した」etc。そんな「物語」に彩られた「名画」、そこから生まれる感情などを通して、我々は「名画」を見ている。

それは「名画」だけのことではない。我々自身がすでにいくつもの「物語」をまとった存在である。自分の体験や経験、地域や学校、歴史や文化…私たちはそこで得た「物語」を通して物事を見ている。前回も書いたように「自分の分かったこと」を通して世界をとらえているのである。

作品も、そして私たちも、ともに「物語」をまとった存在である。美術作品と私たちの間には、すでに出会う前から何層もの「物語」が存在している。様々な「美術の知識」も、その一つとして働いていると考えることができる。


②「場所」の資源としての「美術の知識」

次に「場所」。
その代表選手は美術館だ。「美術館には本物がある」「美術館では名画が見られる」。私たちは美術館が信頼できる審美眼によって選ばれたものを展示していると思っている。確かに、美術館は購入から展示まで様々な人々や組織が関わっている。その社会的な制度の上で私たちは美術を見ている。言い換えれば美術館という権威づけられた場所にあるから「名画だ」と思っている。

また、美術館が収蔵しているのは美術作品だけではない。作品の保存のノウハウ、作品の購買システムなども吸い込み、作品と一緒に収蔵する。美術館はそれが生まれたときから、美術と美術にまつわるものを収集し、社会と美術を切り離す。そのため「美術の墓場」「美術の殿堂」などと言われ続けてきた。このような問題に対して、作家は自らの表現で、美術館は展覧会で美術や美術館の在り方を問い直している(註1)

前者の場合、「美術の知識」は美術館という制度を強化する (註2)。後者の場合、美術館の見直しや問い直しの資源として用いられる。「美術の知識」は「場所」に関わりながら、それぞれの状況に応じて働いている。


③「方法」の資料としての「美術の知識」

そして「方法」。
私たちは美術館で、ありのままの「本物」を見ているわけではない。様々な「方法」を通して見ている。

例えば展覧会である。展覧会では、学芸員は「名画」が十分味わえるようにストーリー性を考えて各部屋を構成する。展示場所やライティングなどを詳細に検討する。その結果、人々は「展示室ごとに順を追って進むこと」で学芸員の「物語」を追体験できる。この「方法」は、その特権性や透明性が批判の対象になることもあるが、うまくいけば感動や知的興奮を提供することもできる(註3)

もう一つの「方法」が普及活動である。例えば、ギャラリートーク。ギャラリートークは、美術作品が身近にあった時代や社会では不要であり、美術館が生まれたからこそ必要になった「方法」だ。この「方法」は、本質的に作品から離れることを強制する(註4) 。喩えは悪いが、ケーキ屋さんの前で長々とお菓子の説明をされているようなものだ。目の前に素晴らしい作品があるのに食べられない。それは基本的に美術のありがたさを享受する構図をつくりだしやすい。ただ、鑑賞する喜びを味わったり、鑑賞の能力を高めたりすることもできる。

どちらの方法においても「美術の知識」は、研究資料、キャプション、ギャラリートークの説明資料、など様々な場面で資料として用いられている。美術を見るための「方法」を支える役割として働いている。


*****


「美術の知識」は、私たちが美術に出会う場面で様々に働いている。気を付けたいのは、そのことに自覚的か、無自覚なのかということだ。

例えば「美術館には素晴らしい本物がある」という制度を疑わない普及活動は「美術の神殿」という意識を強化するだけだろう。一方、進め方次第では逆の視点を提供することもできる。

ある展覧会でギャラリートークをしていたら、展示室に入ったとたん参加者が作品の配置や空間について語り出したことがある。それを丁寧に拾い上げたところ、そのグループでは、展示と鑑賞者の関係、学芸員と自分たちの関係などについて語り合った(註5)

「美術の知識」は使いよう。本ブログ自体、一種の「美術の知識」である。それぞれの状況に応じて活用することが大事だと思う。


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註1) デュシャン、あるいは沖縄県立博物館・美術館の開館記念展「沖縄文化の軌跡 1872-2007」。

註2) 例えば、「大人の絵は展示してよいが、児童画はふさわしくない」。それは、多くの人々が「美術館にふさわしいと思う美術」が展示されているのが美術館だということを示している。動物園もそうで「百獣の王ライオン」「可愛いパンダ」など、人が動物園に「ふさわしいと思う動物」が檻に入れて集められている。だからカラスの檻はない(旭山動物園にはある!)

註3) 学芸員の特権性や透明性に自覚的な美術館では、常設展であっても「これは○○が企画しました」と学芸員の名前を明示している。あくまでもこれは○○の見方であるということを表明しているのである。

註4) 逆に触ったり、操作したりすると、作品を自分に近づける。例えば子どもは自分が遊んだアートカードの実物を美術館で見付けると「あ、僕の」という。ちなみに、女性週刊誌の表紙が男性誌に比べ分厚いのは女性が触ってから買う傾向があるからだといわれる。

註5)島根県立石見美術館「スウィンギン・ロンドン50‘s-60’s」での筆者の実践(2011年8月26日)


奥村高明(おくむら・たかあき)
聖徳大学 児童学部 児童学科教授 芸術学博士(筑波大学)
小中学校教諭、宮崎県立美術館学芸員、文部科学省教科調査官を経て今年4月より現職に着任。
近著は『子どもの絵の見方―子どもの世界を鑑賞するまなざし』(東洋館出版社)など。



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