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美術の知識と美術鑑賞 vol.7

こんにちは。「美術検定」実行委員会事務局です。
今日は奥村高明氏の連載「美術の知識と美術鑑賞」をお送りします。

「美術の知識」はどのような場でどのように生成されるのかといったことを、「美術鑑賞」を通して解体してきたこの連載は、ひとまず今回で最終回です。
これを機に再度、最初から読み直しをしてさまざまに考えを巡らせていただければ、と思っています。

新年からは新たなテーマで連載が始まりますので、こちらもお楽しみに!


すでにお気づきのことと思うが、筆者の考え方にはいくつかの特徴がある。

一つは、できるだけ様々な事柄を同一平面上、フラットにおきたいと思っている。
例えば、「対話による鑑賞がベスト、知識は必要ない」とは考えない。その逆「対話はだめだ、知識こそが大事だ」とも思わない。あるいは「大人は分かっているけど、子どもは何も知らない」とは考えない。その逆「子どもが偉い、大人は文化的がしみつきすぎてだめだ」とも思わない。

「何かが最高」と思ったとたん、たとえ口にしなくても、そこには「他のはダメだ」というニュアンスが入る。それはヒエラルキーにつながったり、「上から目線」になったりしやすい。世の中は、どっちが上、どっちが下ではないと思う。


二つには、できるだけ実体論を避けている。
実体論というのは、簡単に言えば「確固たるモノがある」という考え方だ。しかし案外そうでもない。例えば、「子ども」という概念がそうだ。学校制度が確立する前後では全然違う。1800年代半ばまで、子どもはコミュニティの貴重な働き手だった。ところが学校が生まれたとたん、昼間集められ「あなたは小学1年生、あなたは中学3年生」と分けられる。「児童・生徒」の誕生である。そして効率よく足し算、割り算、因数分解が教えられる。今、私たちが思う「子ども」は、そのような学校制度がつくりだした「教育すべき対象としての『子ども』」である。

これを美術で考えれば、「美術作品」も、同じように歴史的に複雑に絡み合った実践を通して意味づけられた概念である。その「美術作品」が、今日、美術鑑賞という状況をつくりだしている。その現場で「参加者」や「進行役」が日々生みだされている。そのように考えている。


三つには、モノの良し悪しよりは、役目や働きに興味がある。
例えば、誰がこの絵を描いたなどの「美術の知識」そのものには興味がない。それよりも「美術の知識」が、いつ「美術の知識」になるかとか、それはどのように用いられているのかに興味がある。もちろん「美術の知識」を否定しているのではない。それは別の分野で、別の人々が行うことであって、私が興味を持っているのが実践の現場だということである(註1) 。現場の参加者の視線や姿勢、発言や動き、状況を構成する場所、方法などに興味がある。そこで何が生まれて、何が可視化され、どのような人々が成立しているのかを考えたいと思う。例えば「美術の知識」が「美術の知識」たり得るのは、どのような場所や実践で、そこで人々は何を感じ、何を考えているのかである。


このように考えるのは、一つ一つの実践や存在が重要で、かけがえがないと思っているからだ。どのような実践も何らかの価値があり、どこかの誰かの存在には必ず意味がある。そう考えている。大げさかもしれないが、一人一人の小さな人が、小さな場所で、小さなことを実践する、その営みの連鎖が世界を動かしていると思っている。これはけっこう強い信念である(註2)


本ブログは、筆者のそんな視点からの論考である。言い換えれば、現場の実践や人々の姿からの「美術の知識」の解体、「美術鑑賞」の問い直しである。もちろん分かりにくかったり、整合性がついていなかったりするかもしれない。それは筆者自身の力不足のせいである。ご批正をいただきながら、今度は少し切り口を変えて進めていきたいと思っている。


*****

註1)美術史や美学などは大切なことだ。様々な新しい視点を学ぶことができる。

註2)ベルリンの壁にも同じような意味の落書きがある。



奥村高明(おくむら・たかあき)
聖徳大学 児童学部 児童学科教授 芸術学博士(筑波大学)
小中学校教諭、宮崎県立美術館学芸員、文部科学省教科調査官を経て今年4月より現職に着任。
近著は『子どもの絵の見方―子どもの世界を鑑賞するまなざし』(東洋館出版社)など。


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